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人物秘話

九州一の美女、大悪女と呼ばれて

2026年08月02日 04:00
九州一の美女、大悪女と呼ばれて

天文22年(1553年)、豊後の戦国大名・大友義鎮は、家臣の妻であった奈多夫人を自らの妻として迎えていた。

九州一の美女と謳われた彼女は、元は神職の家系に生まれ、大友家臣・服部右京亮に嫁いで一人娘を儲けていた。

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ところがその頃から、彼女は主君・義鎮との関係を持ち、娘を出産。夫は謀叛の疑いで成敗され、彼女は義鎮の正室に収まったのだ。

「そなたこそ、我が妻よ」

義鎮は彼女を深く寵愛し、二人の間には三男四女が生まれた。長男は後の大友義統であり、家督を継ぐ嫡男である。

しかし、義鎮は家臣に諫言されるほどの女好きで、側室を七人も抱えていた。奈多夫人は夫の浮気を鎮めるため、国中から僧侶や山伏を招いて祈祷させたという。

さらに事態を変えたのは、義鎮のキリスト教への傾倒だった。神社の娘である奈多夫人にとって、それは我が身を否定されるに等しい出来事だった。

「神々は、必ずやお許しになるでしょう」

彼女は娘の婚約者に棄教を迫り、キリスト教徒となった次男を勘当するなど、夫や子と激しく対立した。宣教師たちは、そんな彼女を「大悪女イゼベル」「悪魔の協力者」と誹謗中傷した。

かくして心労が重なった奈多夫人は病床に臥せってしまう。宣教師たちは天罰が下ったのだと非難した。

そして天正6年(1578年)、ついに義鎮は奈多夫人と離縁してしまう。キリスト教では離婚は禁じられていたが、宣教師たちは「大悪女」ならばとこれを認めた。

離縁された彼女は、臼杵城に押し込められた。現当主の生母を野垂れ死にさせるわけにはいかないという、情けにも似た処遇だった。

このまま飼い殺しの境遇に絶望した奈多夫人は自害を図ったが、監視は厳しく、ついに実行はできなかった。

「せめて、神々の御前で死なせてください」

最期までキリスト教への改宗を拒んだまま、彼女は天正15年(1587年)2月15日、疫病のためこの世を去った。

その3か月後、夫・義鎮も後を追うように世を去った。

あの世で再会した二人は、果たして和解することができたのだろうか。

歴史に「もし」はないが、彼女の人生に宗教がなければ、二人の関係は違ったものになっていたかもしれない。

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