31歳で逝った銀幕の女神 桑野通子の愛と死
大正4年(1915)、東京・芝区のとんかつ屋に生まれた一女が、後に戦地の兵士たちを熱狂させた伝説の女優になるとは、誰も予想していなかった。
彼女の名は桑野通子。
エアコンなしで部屋を涼しくするならこの一台Airio Pro 貧しいながらも勉学に励み、三田高等女学校を優秀な成績で卒業。
卒業後、森永製菓の初代スウィート・ガールに採用され、3年間、百貨店やキャンディストアで笑顔を振りまいた。
ところが、その後の進路はダンスホール『フロリダ』。
人気ダンサーとして働く彼女を、松竹のスカウトが見逃さなかった。
19歳で松竹蒲田撮影所に入社し、清水宏監督の『金環蝕』(1934年)で銀幕デビュー。
清水は彼女の自然体の演技を高く評価した。
「カメラを意識しない、伸びやかな表現だ」と。
若手俳優・上原謙との共演では「アイアイコンビ」と呼ばれ、息の合った演技で人気を集めた。
上原は「彼女と仕事をしていると遊んでいるみたいだ」と語った。
通子も負けずに言い返した。「あなたは真剣に演技をやりすぎ」。
昭和11年(1936)の『有りがたうさん』では、いわくありげな着物姿の流れ者を演じ、存在感を放った。
翌年の小津安二郎監督『淑女は何を忘れたか』では、洋服姿の明るいモダンガールに変身。
幅広い役柄を自在にこなし、注目を浴びた。
その美貌は、戦地の兵士たちの心の支えでもあった。
昭和13年(1938)9月、彼女は海軍慰問雑誌で胸元の開いたロングドレス姿のグラビアを飾った。
ブロマイドは飛ぶように売れ、兵士たちはポケットに忍ばせて戦場に向かった。
「知的で近代的な美しさ」――それが通子の最大の武器だった。
しかし、その美しゆえに「冷たい」「近寄りがたい」と評されることもあった。
役柄の幅は狭まりがちだったが、昭和14年(1939)の『兄とその妹』では英文タイピスト役を好演。
存在感を示し続けた。
その時、彼女の胸に秘めた恋があった。
相手は森永時代の同僚、斎藤芳太郎。
斎藤には妻子がいたが、通子は彼を愛した。
昭和17年(1942)、通子は長女・みゆきを出産。
入籍を望んだが、斎藤は家庭を捨てられなかった。
シングルマザーとして、女優活動を続ける日々。
戦況が悪化し、娯楽映画は減少。
それでも通子はスクリーンに立ち続けた。
ところが、終戦翌年の昭和21年(1946)3月。
溝口健二監督『女性の勝利』の撮影中、突然彼女は倒れた。
大船病院に運ばれ、応急手当を受けたが、子宮外妊娠による大量出血。
31歳という若さで、帰らぬ人となった。
映画での最後のセリフが伝えられている。「私も強く生きますわ」。
その言葉が、まるで彼女の人生を象徴しているかのようだった。
通子の死後、斎藤は妻と離婚し、別の女性と再婚。
長女みゆきを引き取り、育てた。
みゆきは後に松竹の看板女優として活躍するが、昭和42年(1967)に結婚し、芸能界を引退。
斎藤はその後、訴訟や事故で週刊誌をにぎわせた。
だが、通子は18歳から亡くなるまでの14年間、彼との愛を貫いた。
他人には計り知れない、まるで映画のワンシーンのような愛の物語。
それは、今もなお銀幕の彼方に、ほのかに息づいている。
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